身体・人生の履歴
生まれ育った環境や家族や学校、広く言えば自分が生きてきた人生で経験する、様々なことが自分という人間を外側から規定し、拘束し、形成する。
その事実を、理論的に、ということは容赦なく語ったのがブルデューということなのだろう。
この私に刻まれてしまっているものは、消せない。というか、「消そう」とするモチベーションそれ自体が、既に一つの刻印を刻んでいる。
それゆえ、この本でも触れられているが、「ブルデューは決定論だ」と言われるのだろう。
しかし、逆に考えると、ブルデューはこの私という人生に刻まれたもの、それが「身体的」とも言えるほどにナチュラルに身についてしまっているものを、実につぶさに見つめようとしている。その視座を提供している。
人生を、あるいは社会を、呵責なく見つめる眼差しは、確かにそれ自体としては呵責ない厳しさを持っているのと同時に、「何故それ程に」という思いを共有する者にとっては、それは一つの「優しさ」でありうる。