見田宗介読書220419

 

見田宗介が22年4月1日に亡くなった。

見田は、僕が社会学を少しは真剣に学ぼうと思うようになったきっかけの人だ。彼の『現代社会の理論』を大学のゼミで読んで以来、彼の著作は出来るだけフォローしてきたし、彼の著作集は全部書棚に収まっている(未だ全て読めてはいないけれども)。

彼の著作に触れ始めた当初、つまり『現代社会の理論』を読み始めた頃、その明晰な(これも見田が愛用するキーワードだ)視座に魅了されると共に、どこか相容れないような感覚も覚えていた。『現代社会の理論』で言えば、特に最後半の章については「これは社会学なのか、これは「宗教」ではないか」と思った。

事実、見田宗介はある意味で(というか文字通りの意味で)「グル」であったと思う。多くの「信者」を抱えていたと言うし、彼自身もそのように振る舞うことを良しとしていたようにも思う。

僕自身は、見田を直接見たのは、一度きりだ。朝日カルチャーセンターで彼の連続3回の講座を申し込んで、確か、勢い込んで一番前の席に座ってICレコーダーでその話を録音した記憶がある。彼は案の定、定刻から遅れてきた。「さすが『時間の比較社会学』を書いた人だけあるな」と思った。彼は革ジャンを着て遅れてやってきて、色んな話をしていたような記憶があるけれども、残り2回は出席しなかった。そのICレコーダーの録音も直ぐに消した。スケジュールの問題ではなく、その1回で「もういいや」と思ったのだ。

その経験を通して「見田信者」から脱会することが出来た僕だったけれども、その後に公刊された見田宗介真木悠介著作集は全巻集めてある。それをどう読むか、どう向かい合うかは、今もって自分自身の課題だ。

見田宗介の単著としての遺作は『現代社会はどこに向かうか―高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書)だ。この新書が出た時も、直ぐに購入した。手元にあるのは、第一刷である。一読して、やたら腹がたった。煮えくり返るような怒りがこみ上げてきたのは、ビールを飲みながら読んだからだけではないと思う。

見田が描いた「美しい」未来社会の中に、僕は存在を許されているのだろうか。全てを脱色するようなユートピアを描いてみせた見田が見ていたものの中に、教会が見つめてきた人間の業や罪というリアリティはどこに位置づけられているのだろうか。それが僕の無い頭では全く理解できなかった。

その意味で、この見田の遺作は、僕自身にとって見田宗介が残した仕事を読み返すための確かな視座を与えてくれたように思う。